一九二四以后の周作人は小品文の名手として読者に长く记忆される。现実の暗黒、理想の幻灭によって彼の精神はますます消沈し、心境は日に日に悪化する一方、文章かえって闲适の路に赴くようになり、趣味の世界へ没头する。彼独自の散文芸术もいよいよ至高の境にはいり、苍郁たる気品を养うの至った。新文学运动の文学理论家・评论家の周作人は、随笔家としての周作人にとってかわられ、小品文一筋の道を歩み始め、やがてその黄金时代を迎えようとしていた。彼を「転向」させた要因については、彼个人の资质、文坛の気运、国内外の情势などさまざまな侧面から考えられるが、いま一つの要因として明治末期の写生文とのかかわりを问题にしてみたい。特に、写生文をめぐる夏目漱石の一连の议论、及び周作人の受けとめ方を通して、その「転向」の心理を辿ってみたい。 周作人が东京に行った明治三十九年当时の日本の文坛は、どんな构図を呈していたのだろう。周作人の蔵书中には雑志『ホトトギス』の第九巻第七号が现存するが、夏目漱石の小说『坊っちゃん』はその号に発表され、『吾辈は猫である』の第十回もやはりその巻头に载っている。『早稲田文学』を本拠地とした自然主义文学もいよいよ隆盛期を迎えようとしていたが、日本の近代文学で、はじめて周作人の目に映り、そして彼の関心を强く引き付けたのはやはり夏目漱石の华々しい登场と活跃であった。