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中日交通服务对比论文发表

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中日交通服务对比论文发表

知道南京大屠杀吗,呵呵,哪说明你历史学的好,等着我会举行广岛大屠杀,知道哪个国家送你们2颗原子弹吗,呵呵,等到时候送我们中国送你们4个

一个国家的交通,就像一个人的循环系统,它提供关乎国家生存与发展的一切人员、能源与物资的供应与运送。而交通的流畅与安全,也是一个国家在整体运作中丝丝入扣,准时顺畅的表现。甚至可以说, 一个国家的交通,就是一个国家性格的体现。

交通在本质上是一种流动的联接与传递,而流动的顺畅与安全,则体现于尽精刻微的无数个细节之间。 在细节上的精益求精,正是日本人性格的特征之一。 日本人对交通安全的细节吟味,其在交通运输中“硬件”与“软件”两方面的过硬表现,值得我们深究。

据不完全统计,世界上平均每50秒就有一人死于交通事故,平均2秒就有人因此受伤。而且由于不注意细节,这个数据还在不断增长中。交通安全是各国亟需攻破的难题,也是全人类共同的话题。世界各国为了减少交通安全事故,可谓是绞尽脑汁,大开脑洞……

比如 荷兰的“荷式开门法” ,强调使用距车门较远的手开车门,在上半身自然转动的瞬间,观察后方车辆情况,避免骑车撞门事故。

英国连地面都不放过,在斑马线设立LED“红绿灯带”。 还不是因为现在的低头族太多,连过马路都舍不得抬头,让警察叔叔操碎了心。不过怕的只是这些人对地面“红绿灯带”也选择性失明……

凑够一撮人就可以走了,和红绿灯无关。法不责众,所以理直气壮。为此, 巴黎特别设立了车祸警示互动广告灯箱 。

据悉,泰国是全球交通死亡事故第二多的国家。在一年一度的泰国泼水节(又称“ 宋 干节”)期间,成千上万的泰国人会骑着摩托车涌上公路,许多人根 本不戴安全帽。他们从大城市返回乡村,与家人团聚。而在庆祝重大节日期间,饮酒是必不可少的:在“7天危险期”,每小时超过2人死亡、160人受伤。 泰国为了惩治酒驾则实行“太平间体验计划” ,让酒驾司机参观太平间,用抹布擦拭停放尸体的不锈钢……也许,只有直面死亡才能意识到生命的可贵~

由于历史原因,我们对日本这个国家的情感非常复杂。一方面纠结于历史恩怨,另一方面却很佩服日本制造、国民素质教育和社会治理等方面取得的成就,其中不得不提一下日本在交通方面的成就。

为了避免被扣上“精日”的帽子,我决定先用 国际交通事故数据库的数据资料(2015年版) 来进行分析,看看日本是否真值得我们学习借鉴?

另外,虽然没有包含在这一统计数据中,但现在中国汽车保有量为1.5亿,已超过美国,预计交通事故死亡人数也将超过美国。

通过上述诸多数据可以总结出日本交通的两大特点:

①日本的汽车保有量大,交通事故死亡人数较少,安全方面世界领先; (见下图1左)

②老人事故死亡人数和步行事故死亡人数多这两点,是日本交通明显的两大弱势。 (见下图1右、图2)

日本交通事故死亡人数目前在全球算得上是最少的几个国家之一,对比中国,日本在交通安全推广上做的确实比较实在,从以下这组数据对比我们就能看出两国之间的差距:

接下来,就让我为大家揭秘:日本如何缔造交通“安全神话”……

日本的交通安全运动每年两次,在春天和秋天举行。距离最近的一次是2018年(平成30年)9月21日(星期五)开始到9月30日(周日)结束,为期10天的“秋季全国交通安全运动”。

活动期间,从中央部门开始,到看似不相关的部门都会参与进来。但活动不是单纯为了增加警察的巡逻和检查进行管制,而是 以启蒙为主要目的,利用学校和市町村的设施,来扩展人们的交通知识。

事实上,在交通安全运动期间,虽然没有公开要求加强管制,但因为是全国性的大活动,所以警察几乎没有休息地工作着。 警察出勤率的上涨不仅会增加巡逻的数量,还会加强速度监管、酒后查问、暂停检查等管制。

相信许多人小时候都上过安全知识课,看过各种绘本和视频来学习交通安全知识。但是,对书本的印象只能停留在纸面,如何真正加深印象才是难点所在。

日本独辟蹊径,他们的交通安全教育是这样的—— 碰撞、惨叫、碾压、翻滚、飞起…...超敬业的替身演员,超逼真的现场车祸模拟,将违反交通规则造成的严重后果一一展现。

骑车人可以在马路上飞速骑车吗?当然不行,如果飞速骑车会有什么后果? 你就会被撞飞!这个画面非常惨,真的就是直接撞上去……

无论是大车还是小车,都不能体贴太近,这就是原因!铁包肉和肉包铁,真的不能比……

骑车打电话?太危险!一个不留神,就是终身遗憾。 永远不要小瞧汽车的冲击力,这些血淋淋的案例摆在眼前,谁的小神经能不紧绷?

真的不要在马路上飞速骑车,不是开玩笑,幸运的话你早走几分钟,不幸的话,你可能就早走几十年……

看着和自己平时做相似动作的人被撞倒在地,在场的小孩子们目瞪口呆,想必心灵受到了不小的冲击。大一点的孩子,更多的是从中受到警示。

这些事故其实几乎每天都在发生,日本给学生们做了最直观的演示,用强烈的感官刺激迫使大家记住每一个可能产生交通危险的行为。

随着社会高龄化、少子化问题的发展,城市与地方之间的差距不断加大,日本的“高龄司机”成了社会一大课题。“油门和刹车踏板踩错了”、“高速公路逆走”等, 65岁以上老年人造成的事故呈增加趋势。

国家和警察厅等相关行政机关,为了减少高龄驾驶者引起的事故,从很早之前就制定了 “驾驶证的自主退还制度” ,还进行了很多加深人们对制度认知和自主返还理解的相关宣传活动。

驾驶证的自主返还者,将可以享受到很多方面的优惠。交通工具支援方面主要是公交车和出租车等打折券的发放和次数;物品支援方面主要有交通安全用品、购物积分卡等的赠送;打折支援方面则有购买 商 品的打折以及设施使用费的折扣等。

根据舆论调查,对高龄司机“在什么时候想要返还驾驶证”的提问中,回答“感到自己身体能力下降”的人占64.3%,接着依次是“被家人等劝告放弃驾驶”、“违反交通规则或造成交通事故”、“感觉公共交通机关充实,没有必要”等。

除此之外,在2016年11月召开的“高龄司机交通事故防止对策相关的阁僚会议”上,国土交通省还向8家国内汽车公司提出了制定“防止高龄司机事故对策计划”的要求。从那以后,汽车的大部分电视广告都显示了 驾驶支援系统和预防安全 。

日本小学生的书包不仅有助于交通安全,其提供的浮力还能当救生圈呢!而且因其使用了防冲击性硬质材料,在地震或遭遇撞击时,也能减轻儿童的受伤程度。日本书包除了贵(均价2000软妹币),真是没有啥缺点了呢~

“森林法则”是强者先行,但是在森林里只有 霸道 没有交通。在现代社会的交通中,“强者的示弱”,是一种关怀,一种风度,更是安全的保障。

为了交通安全、交通服务,这么多都不能做,那在日本开车司机能做什么呢!据说,可以吸烟。在日本,普通车辆的司机(即不包括大卡车等)车内吸烟并不违反相关法规,因为日本人觉得车内吸烟也不用动什么脑子,不会分散司机太多注意力,但关于此目前在日本还有许多争议。

一个国家真正的现代化,其实质上应该是细节的现代化。再巍峨的高楼,没有细节的精致,也会溃于蚁穴;速度再快的列车,没有细节的把控,也将难保安全;再强大的军队,没有细节的严密,也会出现疏漏。细节,是分工细腻化的工业与后工业社会的灵魂,是精密化和系统化的现代产业结构的精髓。 日本人 吟味 交通安全细节的“性格”,值得我们学习和借鉴。 (文: 韩蕊)

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国际観光における中日交流の现状と课题目 次序论第1章 中日観光交流の背景と现状第1节 中国における国际観光客の定义第2节 新中国成立后、中日観光交流の展开第2章 访日中国人観光客受け入れの现状第1节 中国観光のアウトバウンド市场の动向第2节 中国人の日本旅行第3章 访中日本人観光客受け入れの现状第1节 日本観光业におけるアウトバウンドとインバウンドの不均衡第2节 日本人の中国旅行第3节 2008 年北京五轮と2010 年上海万博第4章 国际観光おける中日観光交流第1节 中日観光交流の実例第2节 访日修学旅行における若者交流第3 节 中日観光交流の问题点第5章 中日観光交流における将来への提言结论参考文献研究のテーマ「国际観光における中日交流の现状と课题」研究の方法まず、新中国成立后、中日観光交流の歴史と背景を述べる。それから、中国観光のアウトバウンド、インバウンドの実态と日本観光のアウトバウンド、インバウンドの実态などを把握し、中国のアウトバウンド志向と日本のインバウンド振兴により、中日観光交流の繋がりがより一层结び深くなりつつあるという现状を明らかにする。そして、両国间に観光交流の実例を挙げて、交流の特徴、结果、感想及び问题点などを述べる。また、问题点の成因を分析し、解决策と今后の提言を述べる。役に立つ资料を手に入れるために、観光に関连する书籍、雑志、先行论文などの文献を参考にする上、中日観光関连するホームページも调べ、最新のデータを収集、分析し、古い资料を更新する。论文の构成本论文は、序论、第 1 章から第5 章、结论の顺に构成している。序论21 世纪は観光ビジネスが花形产业の一つであるといわれている。先进诸国であれ発展途上国であれ、観光はその発展形态に违いはあるものの、世界各国に共通して一层盛んになっている。観光振兴や観光交流は、世界各国において地域振兴のための重要な柱の一つとなっている。中日両国にとって、今后、中国のアウトバウンド志向と日本のインバウンド振兴により、中日観光交流の繋がりがより一层深くなるであろう。そこで、本论文では、両国の国际観光业の现状、その中での中日観光交流の现状に着目し、今后、両国の観光业がさらなる発展を遂げるために、取り组むべき课题を见出すことを目的とする。第1章 中日観光交流の背景と现状1949 年中华人民共和国の成立から1972 年国交回复までの20 数年间、中国と日本の国交は正常化されなかったとはいえ、両国间の民间レベルの交流は完全迹绝えることがなかった。この时代の交流は、“友好动机による観光行动”というもので、日本からは数多くの民间友好団体、个人、民间経済関系者、また少数の政府官庁の非公开访问団が中国を访れた。1972 年の国交正常化を机に、中日両国の観光交流は新たな段阶を迎えることとなる。それ以后、一般観光客が交流の担い手として前面的に登场するようになり、観光による交流拡大の时代となった。中国を访れる日本人観光客の性别・年齢・职业等の构成は、年を追って多様化の様相を呈し、観光形态も団体型に加えて个人旅行が増加し、観光需要の多様化がみられるようになっている。第2章 访日中国人観光客受け入れの现状中国と日本は昔から「一衣帯水」とよばれてきた隣国であり、文化的にも深い関系にあるため、中国の国际観光业の振兴は日本人の来访を除いて语ることができない。これに対し、访日中国人旅行者数は、1994 年から坚调に推移、1999~2002 年は、4 年连続して対前年比2ケタ増となった。2005 年、中国からの访日旅行者数は、约65 万人であり、访问先别ではロシア、ベトナム、韩国、タイに次いで第5 位(香港、マカオは除く)である。2006 年、访日中国人旅行者数は、さらに81 万人に达し、访日客全体に占める割合は11%であった。今后は中国のアウトバウンド志向と日本のインバウンド振兴により、中日観光交流の繋がりがより一层深くなるであろうと述べる。第3章 访中日本人観光客受け入れの现状日本人の渡航先は1998 年以降、アジア志向が顕著になった。2002 年は、太平洋路线が缩小された反面、成田空港暂定滑走路の供用开始に伴う短距离路线の充実化により、アジア地域へのアクセスが供给面で强化された。その结果、米国への日本人访问者数の减少と、中国への日本人访问者数の増加が特に顕著に现れた。そして、同年は、「日中国交正常化30 周年」という大きな节目の年にあたり、それを记念して両国间で「中日交流年」が制定され、中国国家観光局は日本の国土交通省および観光関连企业と大规模な観光キャンペーンを行った。2003 年は、3 月にイラク戦争が爆発し、また、东アジア地域を中心に重症急性呼吸器症候群(SARS)が感染拡大したため、2003 年日本人海外旅行者数は、前年比19.5%减の1,330 万人と大幅に减少した。中国は 05 年4 月の各地での反日デモ以降、中国に対するイメージ悪化により、6 年3 月まで、访中旅行者が减少していたが、4 月以降は回复した。中国への旅行需要増に伴い、中日间の航空输送力が相次いて増强されたのも、追い风となった。この章では、日本人访中旅行の未来と世界から热い注目を浴びている中国観光の魅力を検讨する。5第4章 国际観光おける中日観光交流1973 年から、现在まで、国际観光における中日両国间に、様々な分野で交流する実例を挙げ、访日修学旅行における、若者交流を主として述べる。そして、両国参加者の感想と提言、および交流结果など、资料を収集し、中日観光交流の现状と问题点を検讨する。第5章 中日観光交流における将来への提言中日両国は一衣帯水の近隣で、日本は中国を访问する観光客数が最大の国の一つであり、同时に、日本国际旅行市场に占める中国の地位は、ますます重要になっている。中日両国が各方面において交流と协力を强化し、理解を促进することは、中日観光产业の共同発展の促进において重要な意义を持っている。21 世纪の中日両国にとって、観光业の発展には、互いの存在が欠かせないものとなる。そのためには市民レベルの自然体の交流を通じ、お互いを知り、そして相互理解と信頼関系を构筑していくことが必要で、中でも素直で柔软な発想のできる青少年时代の交流が极めて効果があり、积极的に推进していくべきだと提言する。结论周知のように、中国は社会主义体制の下にあるが、早くから日本との観光交流が始まった。また、多くの日本人が、中国観光に访れている。一方では、中国人の日本への観光旅行は、自国の要因、受け入れ国の制限要因などがあり、完全に自由化されたという段阶に入っていない。そのため、中国人の日本への観光访问者は、比较的に少なく、その意味では、「一方通行」の交流であるのが现状である。しかし、最近では、中国人の団体としての日本への観光访问が大幅に缓和され、今后、中国と日本の间には「双方向的」の観光交流が生まれることが期待される。21 世纪は、観光という视点から见た场合、人类の大交流の时代だと言えるだろう。これは世界観光机関の予测によるものである。この机関の発表では、2020年には、すなわち13 年后には、世界の観光人口が约16 亿に达すると予测されている。これは、现在の世界総人口の実に4分の1に相当する。また、予测では、2020 年には、东アジア・太平洋を访れる観光者の数は约4 亿3,800 万人で、世界第2位になる。中国と日本は、アジアの大国であり、中日友好関系は両国政府、人民にとって、极めて重要なだけではなく、広くアジア、世界にとっても重要なことである。観光大国を目指す中日両国は、観光による双方向の交流拡大と相互理解の増进は、両国人民に利益をもたらし、そして、互いに协力し合って诸问题の早期解决を実现するため、観光交流促进を积极的に进めるべきである。両国の间には、小さな困难があるが、长い目で、観光交流の拡大を考えなければならない。それは同时に、両国が共に位置するアジア地域の平和に贡献することとなるであろう。参考文献徳久 球雄 编著 『环太平洋地域における国际観光』(嵯峨野书院)1995 年11 月戸崎 肇 著 『旅行产业の文化経済学』(芙蓉书房出版) 2001 年 11 月山村 顺次 著 『観光地域论』 (古今书院) 1990 年 2 月国际観光振兴会编著 『世界と日本の国际観光交流の动向』(国际観光サービスセンター)2001 年 1 月日本交通公社 编 『観光ビジネスの手引き』(东洋経済新报社)1992 年 10 月淡野 明彦 著 『観光地域の形成と现代的课题』(古今书院)1998 年2 月冈野 英伸 著 『観光学论考』(株式会社アートデイズ)2004 年6 月総合観光学会 编 『観光の新たな潮流』(同文馆出版株式会社)2003 年11 月中部の観光を考える百人委员会事务局编 『中部の観光を考える』(交通新闻社)2001 年7 月王 文亮 著 『中国観光业详说』(日本侨报社)2001 年10 月王 文亮 著 『中国のWTO 加盟と国际観光业』(日本侨报社)2002 年8 月赵 长华 主编 『旅游概论』(旅游教育出版社) 2000 年7 月安村 克己 「国际観光の発展と観光研究体制の成立」、『北见大学论集』第22 巻第1号、1999 年6 月小岛 侑夫 著 『よく分かる旅行业界』 日本実业出版社 2002 年4 月国际観光进行机构(JNTO) 国际観光白书2003 年版国际観光进行机构(JNTO) 国际観光白书2004/2005 年版国际観光进行机构(JNTO) 国际観光白书2006 年版国际観光振兴机构(JNTO) 「日本访日教育旅行検讨会报告书」 2005 年9 月

(一)文化价值观念的差异 0UAR1(gb Rh,kb(_ 1.1 对神灵的信奉 *7&6E1v zN 大和民族是一个信奉自然的民族,自然为神.顺之者昌,逆之者亡.就像我们中华民族将龙喻为民族魂一样.他们信奉这样的"神",还有"灵",他们认为它们他们的这种信仰很虔诚.全国各地的神社,寺庙不计其数.尤以京都地区为甚.很多游客把京都作为日本的寺庙/神社的胜地来进行游览.以下小做汇集: K FPmU% (1)涉成园 O&OEa < 非常著名,因其就处在JR京都站附近,不行10分钟足矣.往往是游客到达京都后的第一站.在这里有日本平安时代的诗人/贵族 源融(げんゆう)的墓地.在传说中,源融是因为"生灵作祟"而狂性大发吞食宫女.其实这和世界上第一篇长篇小说<源氏物语>里的描述是完全一样的. Ki; E3 (2)仁王堂/清凉寺 (1gi?^@ . 以寺内出售的年糕饼(あぶり饼)闻名,相传是菩萨的灵验(ご利益); ,]cI-]& (3)源光庵 [#v@?O 以战国时代石田三成率众自杀,鲜血飞溅的地板作成的血天井闻名的源光庵,庵内更有2扇有名的窗"徘徊之窗"(迷いの窓)和"明镜之窗"(悟りの窓),传为上苍每天考验庵内尼姑是否厌倦尘世的东西; bKh&rhm (4)曼殊院门 wcJIQKCvQ 以寺内的"幽灵女"而出名.据说是妖怪中的"大和抚子"; :P9=| (5)化野念佛寺 )-u.hj& 以寺外的水母地藏王石佛为名.水母地藏王为神话中掌管妇女生产的神.传闻因不伦之恋而堕胎的女子会在这里听到婴儿的啼哭声; tk8!Ix1 (6)贵船神社 "/Bp9z< 京都著名神社,以祈福牌(绘马)闻名.神社内另有700年树龄衫树一棵,被视为神灵在人间的明眼. o coCkq\4 以上列了几个京都的名胜,是给我印象比较深的日本人对神灵的虔诚之处. EUD.`> :vXy\K* 1.2 价值差异 3'tAL([^ 由于和日本的社会性质不同,中国人和日本人的价值取向也完全迥异.中国由于过去特殊的历史原因,丢失了很多民族特有的价值取向,而是随着改革开放,吸收西方文化后诞生一种融合的价值取向.一方面应该看到中国人在全面接触西方资本主义社会后对新鲜事物有了很强的学习欲,个性开放指数也比计划经济时代有了很大的提高.这是非常非常值得肯定和鼓励的.但同时必须提醒的是由于之前的历史原因,中国人的性格中同时掺杂着传统思想和西方社会的价值观.综上,造成中国人的价值取向的不稳定和易动摇.如改革开放后的"出国热","股票热",在这一系列的积极背后,同样必须承认它们给人带来的盲目,主见差的危害.而这些-----盲目地追求、不强的判断力,是中国人价值取向里不能予以肯定的地方. 7:e>B8I 前面说了大和民族是一个很坚忍的民族,这一点促成了他们在科技,艺术里较多领域的繁盛.同时也造成他们民族性格里的残暴气质.二战时成为法西斯三国之一与这脱不了干系.至于日本人的价值取向,可以说比较"纯".众所周知的原因:二战后的日本百废待举,一切归零.也许在很长的美国管辖时间里,他们遭受着文化侵略.但是,这样的文化清洗同时也是使之脱胎换骨.日本的文化,由于战后的历史,使其在本身的资本主义背景下得到了更强有力的血液.甚至在其他资本主义国家的文化兼并下走出了自己独特的道路.因此日本有其独特的价值观:地域窄小的日本要想不被挤压出资本主义的大客车,只有积极,进步,强大. z9)`Y32 ZLE b;| %.*-%/q< (二)艺术创作的差异 G;~" x) 2.1 艺术创作力的差异 @}[n*}&j OLnyD(4y 中国是5000年文明古国,在文化上享有无可替代的地位.中国的诗词,早凭汉语独有的韵律在世界诗词界得到了应有的地位.另外,中国的五声音阶,早已被世界证明她和任何一种音阶相比都无逊色之处(当然任何一种音阶都是同样伟大的.).中国的哲学,虽然烙上了很深的封建烙印,却仍凭其精深之剖理,得以和希腊哲学,德国的哲学齐名. /:o?"D 相形之下,2国文化底蕴的差距显而易见.日本固然有茶道,花道,浮士绘等国粹,然而和中国相比确实逊色些. Ak mZa5 值得关注的是现代,2国在艺术创作力上的差异.艺术创作力,只是表明一些差异,而因其表示的艺术个性维度不同难以比较出高下.中国的艺术创作比较大一统,鲜有灵气的作品.层观摩过一些电影学院学生的作品,实在不敢恭维.在现今的一些先锋艺术领域里,WEB视觉,多媒体视觉领域里也尚未有大建树.而日本呢? !!i]n7AFx' 日本.不可否认,在动画领域一直保持其花魁的地位.日本的动画产业,之所以成功,创意可以说是一个重要因素.日语的非国际化是日本电影出口的一大缺点,但是动画具有轻语言而重表现的特点,容易让人理解.另外,动画电影拍摄的是一张一张的图片,所以任何题材都可以自由地运用.在动画片中,不仅仅是日本,任何地方都可以成为舞台,一切人物都可以成为主人公.活用了动画与生俱来的特点———“无国籍性”,使得日本动画的出口竞争力大增.反观中国的艺术家门,却少了份创新意识和竞争精神.中国的动画片也曾有过辉煌的历史,上世纪60年代的《大闹天宫》以及70年代末的《哪吒闹海》等,均在世界上占有一席地位,国际上甚至将中国动画片统称为“中国学派”.“日本动画制作者联盟”曾在1959年和1960年两次组团赴中国,考察中国动画片艺术而后来,缺少原动力的关系,使得在这一领域失去了竞争力.非常地遗憾. oD$ 3Z21 同样地,在先锋艺术领域,日本也是在懵懂阶段.鲜有出色作品问世.由于先锋艺术(多为视觉艺术),转至了SOHO(small office home office)的倾向,所以对于2国的这一领域的艺术工作者来说,机会还是平等的.总的来说,现代,2国只有艺术创作力上的差异.而无绝对的好坏差距. c?~)4N { gZ@S iA>x 2.2 艺术创作取向的差异 LlpPFZy t YxOLBG~ 2.1里说了2国在艺术创作力上的差异.只是说了内因----民族个性差异.而在外因-----社会体系,价值体系等等的影响下,已经造成了2国几乎相反的艺术取向. *>/^_e{L 在1.1说过,中国的宗教神话有些和基督教类似.而基督教最大的教义就是削除异端(突出事物),建立平等(人人平庸).这些是由民族个性引起,而民族个性再次艺术创作的取向. )\]j&}18) 和基督教一样,中国的文艺,也是反对黑暗的事物,反对杀生和荒谬的;而日本的文艺,由于其更为开放的思想,而,毫无顾忌地将忧郁,悲观,甚而绝望等人类负面情绪(同时也是伟大的艺术之神)容入艺术之中.这也就是为什么日本的文艺作品很病态而中国的文艺作品很平淡,很苍白的原因.当然,这些"忧郁,荒谬,绝望,病态,平淡,苍白",都是综观整个世界的艺术创作的各个角落得出一个不成数据的参数借以比较下中日2国的差异而已. =,Gum9 ?f\|FRYP" +CEz*^t (三).社会风景的差异 w(6E&1|ial >>8`Ea %3{ 资本主义社会下的日本是一番景象,社会主义下的中国又是另一番景象. -s-oUj*E 就家庭说开.日本很开放,但日本也很保守.日本至今都很保守-----在女权束缚的弊病下.日本至今保留着妇随夫姓的习惯,而且日本非常保守的那些女子(大和抚子),对于丈夫之恭敬只能以乖戾视之.对于自己的丈夫,甚至于临睡前上妆,房事时仍带着尊敬称呼.在日本女性结婚后一般就失去自己的工作.而且这种"失去"还往往是带着主动的倾向.就算开放些的女子,在结婚后也从此消失在"工蜂"的舞台,一心尽为妻为母的职责.这和新中国成立前非常相似.而且也随着新中国的建立而被肯定,并作为旧习废除了.在现今中国,这样的情形是难以想象的.是的,在中国,也许在农村,在台湾地区,还有此般现象.但是,远远不成风气,更不及日本这般"普及". Tn-M&}^1 以上也提了,日本是勤劳的国家.被世界喻为"蜜蜂".但每一只勤劳的工蜂在周末都会卸下AMANI,走进各式娱乐场所,痛快地度过周末,翌日认真的工作,会工作,也会玩.中国的大环境却不似这般"友善". |B&G5T7,h 7|A^g|Z

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美国的律师制度美国的法律制度是“双轨制”,即联邦法和州法共存,再加上美国是判例法国家,所以美国没有统一的律师法。有关律师制度的法规,散见于宪法、判例法以及律师协会制订的《律师守则》中。根据律师的任职情况,有人将美国的律师分为三种:政府机关雇佣的律师,企业公司雇佣的律师和开办律师事务所的律师(“挂牌律师”)。前两种律师是政府或企业公司的雇员,他们仅仅处理本政府机关、本公司企业的法律事务,并不接受社会上当事人的委托。后者是在社会上执行律师职务,为社会上不特定多数人服务,领取营业执照,所以又称“挂牌律师”。由于法律专业越分越细,近几十年来,美国出现了一些专门研究某门法律、专门办理某类案件的律师,律师分工的倾向越来越明显。目前,美国已出现了一批专利律师、合同律师、税法律师等等专业律师。美国律师的活动范围和业务是很广泛的。在社会的各个领域,都有律师活动。律师的业务从早期的刑事辩护发展到兼任法律顾问、提供咨询、代理诉讼、办理非诉讼法律事务等。在美国,律师的社会地位很高,是人们所向往和崇敬的职业。这种崇高的社会地位取决于以下几点原因:第一,美国是遵守判例法的国家,法律非常复杂,人们要处理政治生活、经济生活和社会生活的各种问题,就要得到律师的帮助,否则寸步难行。除个人外,一些政府机关、企业、社会团体作出重大决策,即使不是由律师亲自作出,也往往要在慎重地考虑他们的意见后才作出决策的。第二,律师的经济收入较高。第三,律师资格是向上晋升的阶梯。迄今为止,美国有23位总统出身于律师,国会中有60%以上的议员曾执行过律师职务,法官、检察官一般都由具有律师资格的人担任。由于律师的社会地位较高,取得律师资格的条件是很严格的,虽然各州的具体规定不同,但大致应具备以下几个条件:第一,必须是成年人;第二,经过品行调查证明没有劣迹者;第三,必须通过州的律师资格考试。在美国,律师资格考试是由各州最高法院任命的主考人组成的考试委员会负责主持,主考人一般是本州具有权威的法官或律师,应考者必须是美国法学院毕业,具有法学学士学位。孝试内容包括联邦法律和州法律。考试通过后,由考试委员会发给律师资格证书。在一个州取得律师资格,并不等于可以在其它州从事律师职业。如要在另一州从事律师工作,还需要通过另一州的律师资格考试。美国律师开业有三种形式。其一是个人开业。其二是联合经营事务所。其三,合伙经营律师事务所。美国的律师组织是律师协会,联邦有联邦的律师协会,州有州的律师协会,县有县的律师协会。联邦和州的律师协会没有隶属关系。律师协会的任务一是制定《律师守则》,对律师进行道德和纪律教育;二组织律师进修和研究法律;三是对社会进行律师宣传教育。它还监督律师执行《律师守则》,受理公民对律师的控告。律师协会没有权力对律师直接作出惩戒、停止执业或开除律师资格的处分,这些权力由州法院行使。日本的律师制度明治维新以前,日本无律师制度。明治五年,日本以法兰西为蓝本制定了司法职务制度。根据这个制度,日本出现了“代书人”和“代言人”,开辟了代理人参与民事诉讼的道路。1876年2月,日本公布了《代言人规则》(甲第一号)。1880年5月,又对该规则进行了修改。1882年的《治罪法》,首次确立了行政辩护制度。1903年2月,日本颁布了《律师法》,该法虽然取代了《代言人规则》,但却将规则中的基本精神承续下来,第二次世界大战后,日本吸收英美的立法经验,改革了司法制度,于1949年颁布了新的《律师法》。该法几经修改,是日本现行律师制度的法律基础。日本1949年颁布的《律师法》,经前后几次修改后,目前共十一章92条。对律师的使命、资格、权利和义务、组织、罚则等作了全面的系统的规定。现将其主要内容作一简要介绍。律师的使命及职务。日本律师法第一条规定律师的使命有两个,其一是拥护基本人权,实现社会正义;其二是在诚实执行职务的基础上,努力维持社会秩序及改善法律制度。二次大战以来,日本律师界为完成上述使命做出了许多工作。首先,他们发起组织了“人权拥护大会”。至目前为止,该会已召开20多次大会。其次,日本律师界还对公害、药害事件极为敏感,对这些危害进行了不屈不挠的斗争,取得了一些胜利。再次,在改善法律制度方面,日本律师出作了大量工作,例如关于少年的立法,因为律师界的反对,使得严厉处置少年犯罪案件的立法意图未能实现。律师的这些行动,颇受日本国民拥护。律师法规定的律师职务主要有:参与诉讼案件,为公民、机关团体代理诉讼,为刑事被告人进行辩护;在非诉讼案件中为社会提供法律帮助;充任税务代办人等。律师的资格。日本律师法关于律师资格的规定有三种:(1)规定了正常情况下的律师资格,即一般律师资格,这个资格是司法进修生学习终结;(2)规定了一般律师资格的例外情况:在职的最高裁判所审判官;在职的大学、专修科和学院的法学教授、副教授;取得司法进修生资格后,在简易裁判所任5年以上的在职审判官、检查官、裁判所调查官、裁判所事务官、法务事务官、司法研修所和裁判所书记官、研修所或法学完全研究所教官、众议院或参议院法制局参事及内阁法制局参事官,这些人员不经司法进修生学习终结,即可取得律师资格。因为日本“司法进修生”是指普通大学法律系毕业后,通过国家的考试而取得的资格,司法进修生的学习多是业务实践。故上述人员虽然不经过“司法进修”学习实践终结,但由于其已在实际部门工作了五年,相当于司法进修生学习终结。(3)规定了律师资格的排除条件。按日本律师法规定,有下列情况之一者,不能取得律师资格;曾被判处监禁以上刑罚者;受弹劾裁判所罢免的审判官、被除名的律师,被停止业务的辩理士、税理士;被注销的会计士或被免职的公务员,自受处分之日未满3年的;被宣告无财产管理能力的人;破产而未复权之人。日本律师组织及律师工作机构。日本律师实行自治,其律师组织在律师制度中占有重要地位。日本的律师组织分为两种:日本律师联合会(简称“日律联”)和律师会。日本律师联合会(也称日本辩护士联合会)是全国性律师组织。其使命是保护律师品格,谋求律师改善和进步,对律师和律师会进行监督指导和业务联系。日本律师联合会设会长1人,副会长11人,理事71人,监事5人。这些人以选举产生。会长任期2年,其余是义务职,任期1年。除此之外,“日律联”设8个委员会:资格审查委员会;惩戒委员会;纲纪委员会;人权拥护委员会;司法修习委员会;司法制度调查委员会;律师推荐委员会;选举管理委员会。“日律联”的工作主要有三方面:第一,审查律师资格,监督律师行为、惩戒违法律师、监督律师会的工作。这方面的工作是首要的,也是日常性的;第二,对立法、司法的改善进行调查研究。1972年日本有一决议规定:今后有关司法制度法规的改正、修订,要经“日律联”和最高裁判所共同研究后,才向国会提出;第三,从事维护人权的活动。律师会是日本的地方性组织,其使命与“日律联”相同。律师会是法人组织,按照律师法规定,它在每一地区裁判所辖区设立,目前除东京有三个律师会外,律师会的成员是本辖区内所有的律师。小的律师会仅有十几名。律师会必须制订会则,向“日律联”登记,接受“日律联”的指导和监督。律师会设会长1人,副会长若干人。另外设资格审查委员会、惩罚委员会、纲纪委员会等等专门组织。律师会在日本律师系统中起承下启下的作用,日常是审查律师资格,指导律师开展业务,对律师活动实行直接的监督。日本律师的工作机构是“法律事务所”。日本的律师属自由职业者,所以有不少法律事务所是个人的。个人法律事务所的名称都是法律事务所前冠以律师的名字,如山田法律事务所、鸠山法律事务所。这些事务所有的有专门办公地点,也有的就设在律师家里。除单个人办的法律事务所外,还有数人合伙的法律事务所。合伙法律事务所力量大,竞争力强,便于律师业务水平的提高,颇受公民信任,所以,最近几年,这种法律事务所增长很快。律师除个人开办或者合伙开办法律事务所外,也有受雇佣在法律事务所工作的。这些律师多是新手,在受雇期间锻炼成熟,为以后单独开办法律事务所打下基础。中国律师制度产生和发展在两千多年漫长的封建社会里,中国没有律师制度,一直实行封建专制。在司法制度方面,行政权与司法权不分,刑事与民事不分,从君王到县令都有审判权;他们既是中央或地方的行政长官、又是中央或地方的公安局长、检察院的检察长、法院的院长。对任何案件的当事人,不管是原告还是被告,都实行纠问式审判,办案搞刑讯逼供,由审判官任意裁判,既不允许被告人、原告人辩护,也不允许他人为其代理。19世纪中叶,随着鸦片战争的失败和帝国主义列强的入侵,中国社会日益走向半封建和半殖民地化,外国律师开始在中国出现,他们先是在“租界”的法庭执行职务,而后在中国法院担任辩护人或代理人。在国外法律文化的强大冲击下,变法图强的呼声日益高涨,腐朽、闭关的清政府为求自保,开始变法修律,具有几千年文明历史的中国,最后还是从国外引进了包括律师和律师制度在内的资产阶级的司法制度。1910年清朝政府起草的《大清刑事民事诉讼法》,仿效日本的同类法典,曾规定允许律师参加辩护和代理,这是中国法律史上第一个对律师参与诉讼问题作出规定的法典。但此法未及公布,清王朝就垮台了。1911年辛亥革命以后,以孙中山为临时大总统的临时政府,借鉴资本主义国家的律师制度,曾起草了《律师法草案》,准备仿效英、美、德、日等国,考核选拔律师,但因临时政府很快被迫解散而没来得及颁布和实生。袁世凯窃国后,1912年9月,北洋军阀曾制定了《律师暂行章程》和《律师登记暂行章程》,这两个章程,虽条文不多(前一具38条,后一个仅7条),但却对律师制度的主要问题作了规定。这是中国第一部关于律师制度的成文立法,是旧中国实行律师制度的开端。章程颁布后,中国的律师职业慢慢兴起。1922年,上海成立了律师公会,这是旧中国早期的一个律师组织。至北洋军阀政府垮台,全国约有3000人从事律师业务,但他们多集中于上海、南京、武汉、天津等大城市。在国民党统治时期,由于政治黑暗,刑、民诉讼草菅人命,律师活动受到很大限制。律师大都集中在大城市,如南京、上海等地,偏僻的县城难找到一名律师,在广大农村,几乎没有律师的活动。当时的律师是自由职业者,多是个人开业,亦有几个人合办律师事务所,律师事务所规模很小。律师的主要业务是办理刑事、民事案件,也可受聘担任法律顾问。律师个人接受委托,收费归个人所有。律师中的大多数人则以赚钱为目的,谁给钱就给谁办事,谁给的钱多,就替谁卖力,为了牟取私利,律师挑词架讼,制造纠纷,敲诈勒索当事人。 旧中国的司法制度(其中包括律师制度)具有浓厚的半封建半殖民地色彩,发育不全,律师所能起到的作用很小;由于他们绝大多数人出身封建官僚、地主阶级家庭,受到的是封建主义的教育,因此,他们往往站在地主、官僚、资产阶级的立场上为其服务,是为维护当时的法律实施、为封建买办服务的。虽然当时也有极少数律师有正义感,同情劳动人民、支持进步事业,反对当局的专横残暴统治、台施洋、沈钧儒、史良等著名进步律师,但他们常常遭对迫害。中华人民共和国成立之前,在中国共产党领导的革命根据地的司法制度中,就规定了“被告有辩护权”。各革命根据地民主政权的司法机关审理刑事案件,允许被告人委托辩护人为其辩护。在抗日战争时期,各抗日根据地的司法机关,对保护当事人的诉讼权十分重视,虽然由于战争环境的限制,没有设立专职律师,但在审判上准许被告人委托他的亲属,或有法律知识的人,出庭为他辩护。人民团体等单位,对其所属成员的诉讼,也可以派人员出庭帮助辩护。解放战争时期,有些司法机关允许被告人自己或他的代表辩护或提出反证。中国共产党历来十分重视辩护制度,注意尊重和保护人民的各项权利。革命根据地的辩护制度为建国后律师制度的确立提供了一定的经验,作了很好的准备。中华人民共和国的律师制度是在批判和摒弃旧律师制度的基础上,经历了创建、取消、恢复与发展几个时期,顺应了国家法制的需要而逐步发展起来的。鉴于旧律师充满剥削阶级、国民党反动派的法律观念,非法活动猖厥,讼棍包揽词讼,欺诈钥财,扰乱法院审判的正常活动,1950年12月,中央人民政府司法部发出了《关于取缔黑那是及讼棍事件的通报》,该通报指出;作为旧司法制度组成部分的旧律师制度已经废止,“若旧律师仍有非法活动,对于法院威信及人民利益均有危害,应予以取缔。”接着1952年在全国范围内又开展了司法改革运动。这样,旧的律师制度不仅从法律上被否定了,也从社会上被彻底清除了。我国开始着手组建新型的那是队伍。1953年起,我国进入发展国民经济的第一个五年计划新时期,这就相应地要求进一步发展社会主义民主,加强社会主义法制,建立健全的人民律师制度。从1954年至1957年,我国律师制度有了较大的发展。到1957年底,我国已有19个省、市、自治区成立了律师协会或筹备委员会,设立了820个法律顾问处,有专职律师572人,兼职律师350人。律师机构建立以后,接待了大量的群众来访,承办了大量的刑事辩护和民事代理案件。据司法部对上海、北京等10个省、市、自治区59个法律顾问处承办的1204件刑事案件的调查分析,经过律师辩护,改变性质和否定部分犯罪事实的500件,其中法院宣告无罪的63件,免予刑事处分的49件。又据上海市的调查,经过律师辩护的案件,绝大多数的被告都表示服判,提出上诉或申诉的很少。可见律师制度对维护公民的合法权益,保障法律的正确实施起了很大的作用。1957年开始的反右整风运动,由于左倾主义思想的影响,扩大化的反右斗争把新中国的律师制度扼杀在摇篮里。《律师暂行条例》(草案)被打入冷宫,一批律师被指责成“丧失立场、”“敌我不分”、“为犯罪分子鸣冤叫屈、开脱罪责”、一大批忠于党和人民、忠于社会主义法律,刚刚熟悉业务的律师被打成“右派分子”,其他幸免的律师也无法从事律师工作。1959年,各地的律师机构全部撤消,律师制度被彻底破坏。从此,我国出现了20多年没有律师的空白时期,这是我国社会主义法制建设上的一大失误。1978年3月5日,五届人大通过的《中华人民共和国宪法》恢复了刑事辩护制度,从此,我国的律师制度迅速发展起来。1979年,黑龙江呼兰县等地,开始试行选题辩护。广州市为办理海外涉外案件,曾设立了法律代办处。4月,上海市重建律师组织,全国人大法律委员会成立了专门小组,对50年代草拟的《律师暂行条例》(草案)进行修改。1979年12月9日,司法部发出了《关于律师工作的通知》,明确宣布恢复律师制度。1980年8月26日,第五届全国人民代表大会常务委员会第15次会议讨论并通过了《中华人民共和国律师暂行条例》,它是新中国第一部关于律师制度的立法。《条例》颁布以后,我国的律师队伍迅速发展,律师业务不断拓展。律师不仅刑事被告人辩护,而且接受国家机关、企事业单位、社会团体和公民的委托,担任法律顾问及各种诉讼案件、非诉讼事件当事人的代理人。1996年5月15日,中华人民共和国八届全国人大常委会第十九次会议一致通过了《中华人民共和国律师法》。这是新中国第一部《律师法》。《律师法》是我国律师发展的里程碑。《律师法》的出台,对于完善我国律师制度,保障律师依法执业,规范律师的行为,进一步发挥律师在社会主义建设中的作用,加强社会主义民主与法制建设,维护社会的稳定,促进改革开放和经济建设的发展,具有十分重要的意义。随着律师的职能作用日益增强,广大律师不仅在维护国家法律正确实施和社会稳定,促进民主法制建设方面发挥了重要作用,而且通过法律顾问工作,有力地促进了各级政府依法决策和依法行政,推动了依法治理工作的深入开展。同时,为了适应社会主义市场经济发展的需要,广大律师大力开拓与市场经济发展相关的业务领域,积极承办生产、分配、交换、消费各个环节的法律事务,已经成为社会主义市场经济法制建设的一支重要力量。此外,广大律师在促进我国对外开放政策的实施和经济贸易的发展中,依法维护了国家、集体利益和公民的合法权益,起到了不可替代的重要作用。但是,由于历史的原因和执法的惯性,加上我国的律师队伍毕竟年轻,缺乏从业经验,执法观念还不适应,面对社会上存在的拜金主义、享乐主义、极端个人主义思想的不良影响,抵抗能力差,出现了一些道德失范,不遵守职业道德和执业纪律的现象。有的律师缺乏应有的责任心,不认真履行职责,在办理法律事务中敷衍塞责,应付当事人,甚至出现收钱不服务,或者乱收费、私自收费或收费不入帐;有的律师在办理刑事案件中心有余悸;有的未能自觉抵制被告人犯罪嫌疑人以及他们的亲属和来自其他方面的引诱、腐蚀,同时也有少数律师拉拢办案人员办“关系案”,个别律师甚至走上违法犯罪的道路。这些问题虽然只发生在少数律师身上,但影响很坏,危害很大。它严重破坏了律师办的声誉,损害了律师队伍的整体形象,干扰了律师工作改革的顺利进行。为了按照中央的要求和律师法的规定,努力建设高素质的律师队伍,纠正在少数律师身上存在的问题,提高律师队伍的整体素质,司法部于1996年9月26日制定并发布了《关于严格执行〈律师法〉,进一步加强律师队伍建设的决定》,提出了我国律师队伍建设总的指导思想、基本任务、工作重点、基本要求和具体措施。《决定》提出了加强律师队伍建设的基本思路和总体要求;根据中央关于加强社会主义精神文明建设的要求,按照《律师法》的规定,进一步强化管理,提高律师队伍的政治素质、职业道德素质和业务素质,努力建立一支政治可靠、业务精湛、道德高尚、纪律严明、作风过硬,具有良好社会形象的那是队伍。我们相信,随着《律师法》的实施,我国民主法制的进展,我国律师队伍建设一定能够得到进一步加强,一定能够造就一支高素质的、让党和人民放心的律师队伍,一个有中国特色的律师制度将得到进一步完善。

出现这个现象的原因可能是受两国的关系影响。影响了两国学者之间的合作。

受到疫情的原因导致的,疫情的传播导致许多工作受到了影响,在科学领域也受到了很多影响。

中美学者合作发表论文数断崖式下降,出现这个现象的原因是什么?主要还是疫情的影响。

发表科技论文,自然是为了传播,具体来讲是贡献和讨论,即我们已经做了这项工作了,你们别去重复造轮子了;我们已经做了这些工作了,你们看看有没有问题,是否需要进一步完善,还能进一步做些什么。因此这样的交流,更多的是限制在学术共同体以内的。而学术共同体内部,还是需要使用通用语言的,毕竟互联网时代文献多,传播快,靠翻译解决问题不现实。世界范围内,绝大部分科学家都在使用英语发表自己的主要工作。

至于普通人,我以为阅读文献的障碍肯定不止语言。首先是缺乏专业知识基础;其次是价格,Science, Nature的文章那么贵,英美人也一样读不起啊。我也不大建议普通人经常去阅读学术文献。很多最新的科研成果,发表出来本来就是供进一步研究的。有问题的可能性很大,过几年结论很可能就证伪了。用最新文献去指导自己的生活,听风就是雨,纯属自寻烦恼。

那你要说中文发表学术论文,对中国的科学发展没意义,我看也不见得。中国人读写母语确实要快很多;缺乏足够训练的本科生,读中文文献比读英文文献还是要更轻松的。使用中文工作,一定程度上,能提高中国学者的工作效率,减少工作量。

但问题是,目前主流学术界用的就是英语,已有的学术资料很大比例是英文写作的,英美学术界整体贡献更大,把主流学术语言变成英语也不现实。你也不可能放弃和世界范围内的科学家交流,会中文的科学家自己玩。

总的来说,我认为,我国应该加强国内学术期刊的建设,加强在全球学术圈的影响力。但发表学术论文的语言,短期内还是以使用英语为宜。

中美通讯对比论文发表

回顾50多年来中国的对美政策和中美关系的历史,双方既尖锐的对立,也有真诚的合作。冷战后的中美关系也曾经出现了多次起伏和危机,但是中美关系并未破裂,反而加深了。其深刻的原因就在于,中美之间存在着许多共同的战略利益。美国是世界上最大的发达国家,中国是世界上最大的发展中国家,两国对亚洲和世界局势都负有重大责任。在新的国际形势下,中美之间在许多全球性和区域性的重大问题上具有共同利益,存在着广泛的合作基础,中美经济合作的前景更是不可限量。中美关系是当今世界上最重要的双边关系之一。从历史上看,影响中美关系的因素很多,诸如国际格局、经济和意识形态、地缘政治和国家利益以及彼此处理双边关系的政策等等。其中彼此处理双边关系的政策在中美关系中具有举足轻重的地位和影响。稳定同美国关系,是中国外交的关键。近年来,中美关系中的合作关系越来越多,越来越广泛。一、在中美经济贸易关系方面,冷战后十几年来,中美在经济上的 相互依存迅速加强。中国在主动与世界经济接轨的过程中,对美国市 场和资金倚重越来越深。同时,中国也已经成为美国一个稳定并日益 扩大的商品与投资市场,美国在过去20年间,中美两国互为出口增长 最快的市场之一。目前中国是美国的第4大贸易伙伴,美国是中国的 第2大贸易伙伴,是仅次于日本的第二大进口来源地。二、在安全领域内的关系方面,合作主要表现在三个方面: 其一,中美均认为,它们在反对国际恐怖主义的威胁方面,存在着共同的战略利益。反对国际恐怖主义的共同利益使中国政府明确坚决地支持美国为打击国际恐怖活动采取的各种措施。中美在反恐领域的合作是互利的。 其二,在朝鲜半岛局势这个东亚地区热点问题上,中美存在共同关注的问题,即该地区的和平稳定与无核化。朝鲜半岛出现任何变化形势,都会影响到东北亚主要强国和美国之间的相互关系,甚至引起大国的冲突。三、是在大规模杀伤性武器扩散问题上,中美的立场越来越接近。接着就是中国主权与领土的问题,其中最有代表性的是台湾问题。冷战结束后,随着中国实力上升,防范中国在美国亚太安全战略 中所占的比重越来越大,台湾对美国的战略价值亦逐步上升。 到目前为止,美国并没有一定能在台海打赢与中国的战争的把握。最重要的是,由于中美之间的相互依存已经和将继续升高,美国 因为台湾问题而与中国发生军事冲突,其代价将会越来越大,而且亚太安全形势将根本改变,美国现在的亚太安全战略将彻底改变。保证台湾地区稳定的最重要条件,是中美之间的政治关系和军事互信,台湾问题的和平解决系于中美关系的稳定。但是,这并不意味着中美关系的发展越来越和谐。在人权问题为主要内容的意识形态斗争, 它一直严重制约着中美关系的改善,在深层次上影响中美关系的各个方面。中美在人权问题上存在分歧,主要是因为中美两国的意识形态和政治制度截然对立,另一方面美国在人权问题上向中国施压,也有其国内政治的考虑。因此,美国利用人权、民主、自由问题继续对中国施压是必然的。事实也表明,随着中美关系在其他各个领域的发展 和双方在经济和战略领域合作的加深, 随着中国改革开放政策的成功 所导致的中国在社会、政治、法律等各个领域的进步,也由于中国政 府在相关问题上有力的斗争, 人权问题在中美关系中的消极影响正在 相对弱化,今后也不大可能成为中美矛盾的焦点。中美之间的竞争关系 中美相互依存不断上升的同时,还伴随着不断加剧的竞争。两 国之间几乎在两国关系的所有方面都存在着潜在的对抗,从地缘政 治、资源和市场,到意识形态、文明和文化价值等等。这些潜在的对 抗未爆发前,往往表现为不断加剧的竞争。中美不断加剧的竞争是否 会导致对抗,取决于竞争的内容和制约竞争转向对抗的因素。 总而言之,中美关系是不断地向前发展的,各种合作与争吵是不可避免的。可能在将来想当长的时间内,中美不会发生较大摩擦。当然这是发生在中华名族这样的前提下的:中国以维护国家统一和维护国家利益为第一原则,其次才是发展对外势力意图民族崛起。总之中美关系的发展趋势还是很有希望的。

美国的制裁,导致很多的正常文化、技术领域的交流受到了限制,美国已经失去了信誉,没有合作的空间,现在中美之间的合作已经缺乏。

中美学者合作发表论文数断崖式下降,出现这个现象的原因是什么?主要还是疫情的影响。

发表科技论文,自然是为了传播,具体来讲是贡献和讨论,即我们已经做了这项工作了,你们别去重复造轮子了;我们已经做了这些工作了,你们看看有没有问题,是否需要进一步完善,还能进一步做些什么。因此这样的交流,更多的是限制在学术共同体以内的。而学术共同体内部,还是需要使用通用语言的,毕竟互联网时代文献多,传播快,靠翻译解决问题不现实。世界范围内,绝大部分科学家都在使用英语发表自己的主要工作。

至于普通人,我以为阅读文献的障碍肯定不止语言。首先是缺乏专业知识基础;其次是价格,Science, Nature的文章那么贵,英美人也一样读不起啊。我也不大建议普通人经常去阅读学术文献。很多最新的科研成果,发表出来本来就是供进一步研究的。有问题的可能性很大,过几年结论很可能就证伪了。用最新文献去指导自己的生活,听风就是雨,纯属自寻烦恼。

那你要说中文发表学术论文,对中国的科学发展没意义,我看也不见得。中国人读写母语确实要快很多;缺乏足够训练的本科生,读中文文献比读英文文献还是要更轻松的。使用中文工作,一定程度上,能提高中国学者的工作效率,减少工作量。

但问题是,目前主流学术界用的就是英语,已有的学术资料很大比例是英文写作的,英美学术界整体贡献更大,把主流学术语言变成英语也不现实。你也不可能放弃和世界范围内的科学家交流,会中文的科学家自己玩。

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是由于疫情影响导致的,这种情况发生,主要是没有办法合作,所以就会导致产量下降。

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中日冷门文化对比论文发表

东亚三国在文化上是平等的吗?以前不是,现在不是,将来也不是。以前中国文化对外输出,现在日韩学习西方不学中国,将来中国会建立不同于西方的新东方文化,日韩到时候会给自己找个什么样的位置呢?

人与人交往当中,时有错看对方的情形,或把恶人误以为本心良善,或将好人疑心成貌忠实奸。要说错误最严重的,莫过于热恋中的情侣,情浓之下,明知是对方的缺点恶习,竟也视而不见,甚至还觉得别具魅力。这种阴差阳错的彼此观感,国家民族之间亦然。看看中日两国交往关系史,就会发现双方的互相误读,已经有千余年的历史,至今仍没有多大起色。一中国人看日本,往往是从大处和表面著眼。首先看到东瀛是海外岛国,蕞尔小邦,其次看到的是日本学习了不少中国文化,受我们的恩泽日久。这两大印象,可以说在中国人心中已成无意识之定式,随之衍生出的根深蒂固的轻视心态也导致中国人总是无法真正理解日本,更难以秉持对日交往中的平和心态。古代中国历史典籍极为丰富,但是对于和我们交流了千余年的邻国日本,记述详尽而准确的实在凤毛麟角,相反,浮光掠影的皮相和道听途说的传闻倒是太多。根据中方史料,两国交往之肇始是公元前108年,倭人部落到汉的乐浪郡献贡。而公元240年,魏国使团首次赴日“访倭王”。魏国与日本建立交往的动机之一,据说是为了牵制吴国,因其误认为日本的地理位置“当在会稽、东冶之东”。(《魏志/倭人传》)在早期的航海能力限制下,中方对日本的情况有所误识是自然的,因此,虽然日本名义上被纳入了中国的册封体制(彼时日本仍处于分裂状态),但双方交往并不算密切。到了南朝的刘宋时期,初步完成政治统一的日本第一次提出了请求领百济、新罗的大将军称号,这是日本对朝鲜半岛表露野心的肇始,值得注意。刘宋对此的回应是拒绝,可显然并无了解日本形势变化的兴趣。《梁书》中称:“东夷之国,朝鲜为大。”这表明在中国的册封体系中,日本的重要性不如朝鲜,而其试图染指朝鲜半岛的企图是不被允许的。此后的几百年间,中国人对日本的认识基本上属于停滞状态,史籍中虽保留了《倭人传》的条目,内容却不脱《魏志/倭人传》之巢窠。中日双方的交往,在隋唐时期达到了第一个高潮:日本派出十八次遣唐使,唐朝使臣亦八次渡日。然而,王贞平在《汉唐中日关系史》中指出,中国历代朝廷“从未区别对待五世纪之前的各倭部落和实现了政治统一之后的日本”。他表示,600年日使访华,却未像过去一样向隋帝要求封号,“此举是一个重要的外交信号:中日间的君臣关系已经动摇,日本已不再视自己为中国的属国。”这标志著中日关系进入了一个新的时代。不过,取代短命的隋王朝的唐王朝,在对日关系上的表现非常令人奇怪。白江口之役是中日第一次交兵,唐军大败日军。经过此战,日本对朝鲜半岛的窥觑野心,和不甘心纳入中国主导的册封体制的桀骜都已显露无遗,可唐廷却并未深入追究。无论是《旧唐书》或《新唐书》,对白江口之役均只字不提,只在指挥该役的刘仁轨传内寥寥述及。相反,唐廷还给予交过手的“抗敌之国”的日本使团以很高的尊重。753年,日本来使因不满地位低于新罗使臣,在唐廷发生争长事件。尽管关于此事件的真实状况有所争议,但日本使臣在仪式上的排序的确位列诸多外国之前(西列第二,吐蕃之后)。唐玄宗曾称日本为“君子国”,日本在唐人的记述中“人民丰乐,礼义敦行”,其采用“汉制”也多受褒扬。可事实上,日本此时已经大体确立了“日本中心论”的翻版“夷夏”观念,在内部文书中,甚至有把“唐国”称为“夷狄”的律令,并以朝鲜为“近藩”,唐为“远藩”。不难想像,这种态度的真相若是被唐廷知悉,必定会勃然大怒。然而,唐廷似乎对此浑然未觉,非但不计前嫌,还一任日本遣唐使自由来去,汲取中土的文化精华壮大自身。唐朝的“宽大”缘由何在?是“天可汗”的虚荣心过剩导致只求日本来使营造“四夷宾服”的假象自满呢?还是单纯的马虎粗疏,无暇也无意去了解日本的实际情况?依照史料分析,两者成分皆有,而不管哪一种,都正如石晓军《中日两国相互认识的变迁》书中所言,表明了“唐人对日本的漠视。”唐朝曾数度派遣使臣赴日,但这些使臣们看来并未打探到有关日本的真相。在日方史料中,竟然还有唐使离日前向天皇辞别说“臣等多幸,得谒天阙”的有辱国格的记载(779年,孙进兴出使)。虽然我们可以怀疑这些描述可能是日方的吹嘘,但唐朝使臣没有识破并揭露日本的帝国梦想是肯定的。这些使臣为何在回国后隐瞒了所见所闻,其原因可能有二。一是把出使海路遥远的日本当做一个不怎么重要、纯属走形式可又有风险的差事,所以宁可“入乡随俗”,如王贞平所说的裴世清在见到天皇时“按日本习俗行礼似乎很不得当”,但不过是“灵活应变”;二是日本方面也采取了一些迷惑性的手段,避免把局面弄僵,直接对唐构成公开挑战。如孙进兴访日,日方大臣也有人提出不要自称天皇,虽受到广泛反对,但天皇还是降座接受国书。日方的“华夷论”者为之慨叹:“然遂降御座,呜呼痛哉!”(关于唐使团访日的记述,参见王贞平《汉唐中日关系史》)王贞平还在书中细致分析了中日两国往来的外交文书,提出日本在文书中利用日语的音读训读区别,有效地做到了不失自尊地保持与唐国的对等,甚至高等地位。如“天皇”在文书中以日文训读法写做“须明乐美御德”,掩盖了“天皇”的真实含义。735年,唐著名宰相张九龄起草的给日本的国书开头称“敕日本国王主明乐美御德”,“敕”是对臣属的用语,“主明乐美御德”则明显是把它当作了“日本国王”的名字。同样的语言,用两种读法表达,在直书“日出处天子”容易惹麻烦的形势下,是一个称得上狡猾的主意。但王贞平认为,归根结底,造成这种现象的根源在于处理中日关系的隋唐官员“对日本文化一知半解,且误信传闻,以为中日同种同文”。他们以中国人的心态出发,只满足于维护形式上的虚荣心,却不知日本的真实信息已被忽视歪曲。交往多了,马脚难免会泄露出来。《旧唐书》就记称日本来使“其人入朝者,多自矜大,不以实对”,可是,唐政府上下都没有把这个“属国”放在心上。这是中国人的日本观的一个异常不智的开始。事实上,中国人的大意实在是过分了,就在这部完成于五代的《旧唐书》中,居然出现了《倭国传》和《日本传》并列的荒唐现象。两篇文章的篇幅合起来不过数百字,对于倭国与日本究竟是什么关系也描述不清。894年,宇多天皇诏令废止遣唐使,唐朝亦久困于内忧外患,随后的五代十国更是天下大乱,中日关系再次进入沉寂阶段。直到宋代,两国官方正式交往仍然不多。民间贸易和僧侣交流虽比以往有所发展,但单纯追求利润的沿海商贾与旨在传播宗教思想的出家人,并不能根本改善中国对日本不甚了了的基本状况。蒙古帝国的兴起改变了东亚的政治格局,日本亦成为他们的征服目标,可元军两次渡海进攻相继受挫。这里要指出的是,若是对日本的自然环境、地理特点、国内守备等情报有更多的认识,元军当不至于一败再败,至少应注意到登陆地和作战日期的选择。当然,南宋和高丽的降军、仆从军战意低下,也是不可忽视的因素。元朝中日关系的特点是官方往来断绝,民间商贸继增,特别是随著航海技术的提高和经济的发展,形成了一些专以海上贸易牟利的商团,在两国都有利益,俨然成了“中日合资跨国公司”。一旦受到任何威胁或阻碍,商团就可能蜕变成武装势力,这就是所谓“倭寇”的起源。二进入明朝,明太祖朱元璋为了彻底打击张士诚、方国珍等割据力量的残余,实现一个农业帝国理想中的“长治久安”,很快推出了海禁政策。同时,朱元璋以驱逐胡虏,匡扶华夏自居,也决心重建以中国为轴心的“华夷”国际秩序。这两点,堪称对明代中日关系有决定性影响的基石。和过去一样,朱元璋为首的明廷在关于日本的知识方面,几乎没有多大进展。朱元璋很草率地把日本列入了“不征之国”的第二位,而非需要谨慎戒备的潜在对手。尤其费解的是,因为日本涉嫌卷入胡惟庸谋反案,朱元璋“怒日本特甚”,而且在《祖训》中亦指出日本“虽朝实诈”,但他并未有任何伐罪施威的意思,只是“决意绝之”,即断绝与日本的往来。有人认为朱元璋的处理方式是受到了忽必烈两次征讨日本均告惨败的教训影响,但最重要的原因在他于洪武四年颁布的诏书中说的极其详尽明白。该诏书称:“海外蛮夷之国,有为患中国者,不可不讨;不为中国患者,不可辄自兴兵。古人有言,地广非久安之计,民劳乃易乱之源。如隋炀帝妄兴师旅,征讨琉球,杀害夷人,焚其宫室,俘虏男女数千人。得其地,不足以供给,得其民,不足以使令。徒慕虚名,自弊中土,载诸史册为后世讥。朕以诸蛮夷小国,阻山越海,僻在一隅,彼不为中国患者,朕决不伐之。惟西北胡戎,世为中国患,不可不谨备之耳。”(《明太祖实录》)诏书表明,贫苦农民出身的朱元璋无疑不具备海权意识,对外向扩张的帝国政策持否定态度,其战略思想是以防御性的“谨备”为主,重点放在北方内陆。基于这种立场,即使倭寇已经祸乱沿海,日本又并不规矩,他的对策也仅仅是强调“专以防海为务”。洪武朝的中日关系断绝二十余年后,在明成祖时期实现恢复。巧合的是,在热衷于展示海上力量的永乐帝执政期间,日本的南北朝局面出现变化,喜慕中国文化的足利义满将军当政。这位因动画片《聪明的一休》而被不少中国人熟悉的将军,对明帝国怀有罕见的恭敬,主动称臣纳贡。他还应成祖要求消灭本国的海盗,其使臣将献给明帝国的二十名海盗头目悉数蒸杀于宁波。不过,足利义满的“亲华”是个人性的特例,为期也非常短暂,他在永乐六年(1408年)去世后,其子足利义持政权在永乐六年(1411年)便停止了朝贡。而对于此际日本政局的变幻,从南北朝到室町幕府再到后来的战国争雄,明帝国可谓一无所知。明朝对于日本的了解,从永乐四年侍郎俞士吉出使日本,并在日本立下的“御制碑文”可见一斑。该文云:“日本有国钜海东……语言文字皆顺从,善俗殊异羯与戎……”(沈德符《万历野获编》)成祖封义满为日本国王的举动更显示出中方完全不清楚日本的政体,对天皇与将军的区别缺乏基本掌握。宣德七年(1432年),足利义教恢复朝贡,但日本使团访华引起的麻烦不断,成为明朝外国来使中最特殊的现象,而明朝的对应,竟然尤甚于唐朝,几乎是莫名其妙的无原则的宽疏纵容,乃至迹近怯懦。明朝对日本贡使的人数、货物数量以及不得携带武器等均有规定,但日方多不遵守。景泰四年,日本使团在临清抢劫,殴伤地方官员,景泰帝却以勿“失远人心”为由放过了他们。(《明史/日本传》)成化四年,日本使团成员在北京杀人,成化帝仍拒绝了官员的逮捕凶手要求,只勒令日方赔偿白银十两,以显示天朝上国的宽宏大量。弘治九年,日本使团成员又在济宁持刀杀人,明朝的处理办法是将其上京人数削减到五十人。在此期间,日本使团还经常以漫天要价、以次充好等伎俩试图占尽明朝的便宜,有时还以“失我国主之心”公开勒索、恫吓。就性质而言,这一时期的日本使团入贡动机完全是为了牟取暴利,而且不同的藩都力图涉足,终于导致了宁波争贡的恶性暴力事件的发生。嘉靖二年,宁波争贡事件之后,给事中张翀上疏称日本“窥伺中土,得间则张其戎器,以劫杀为事;不得间则陈其方物,以朝贡为辞。劫杀则利民财,朝贡则利国赐,兼有得不得,而利无不在,此倭奴之大情也。”应该说,张翀这里所说的正是日本所谓“朝贡”的真实面貌,并且也指出了日本自隋唐以来始终秉持的对华政策基本特点,那就是“不以实对”兼“叛服不常”,特点背后的原则则是利用中方的弱点耍尽各种手段攫取利益。遗憾的是,张翀尽管看破了日本的假面,他提出的解决办法也不过是“绝约闭关,永断其朝贡之途”。(《明经世文编》)像张翀这样的官员应算作明眼人,可惜人寥声微。明朝对日本的形势仍旧没有求知的兴趣,但张翀所说的日本“窥伺中土”野心很快变成了现实。万历援朝战争是中日再一次交手,明廷对日本的无知完全曝光了。兵部尚书石星不知两国的既往关系,也不清楚“关白”为何物,竟然幻想日本兴师侵略是为了获得中国册封。最贻笑天下的是,石星起用吹牛曾游历日本,认识丰臣秀吉的江湖沈惟敬,结果此人“支吾中国,奉承日本”,闹出了自购珍玩假冒丰臣秀吉致明廷国礼的丑剧。堂堂大明帝国,以口若悬河的从事外交折冲,堪称奇耻。万历年间,明帝国实力已衰,“三大征”虽然都艰难获胜,但消耗国力糜巨。在挫败日军侵朝之后,明朝认为日本“图逞之志未尝一日忘”,“与其过而信之,不如过而防之”(《明神宗实录》)。明朝没有穷追猛打,犁庭扫穴的雄心,一方面是援朝战争“费饷六七百万”,经济负担沉重,另一方面,最主要的是这种进攻性战略根本不符传统农业帝国的性格。明帝国此际对日本的态度不过是通过使者带话:“传与家康,务要专心学好,不可阳与朝鲜讲和,阴怀异图”,天朝有水陆劲卒百余万,“以待你国动静”。(《朝鲜宣祖实录》)这般言语警告的作用当然是有限的,因为日本当时对华政策的追求已经不再是简单的文化学习或经济获利,它开始试图挑战以明为核心的东亚政治体系,挑战中国主导的华夷秩序。万历四十年(1612年),浙江总兵杨崇业上报,日本“以三千人入琉球,执中山王,迁其宗器”。(《明神宗实录》)琉球与朝鲜一样,同是中国华夷秩序下的藩属,日本的侵略朝鲜、琉球显然是欲去中国而代之。但是,中方的反应也仅仅是停留在“倭不可不备”的口头表达层面上。究其原因,明朝高层尽管看到了日本对华夷秩序的现实威胁,但未曾认清日本的真正战略理想,而仅仅把它当作了华夷秩序中一个不时犯混、不太听话的边缘性角色或“不完全成员”,对它的处理仍要以防备为主,以羁縻为辅。如果大张旗鼓地讨伐之,一来跨海远征浪费人力财力,未必能得到什么现实收获,一旦失败还颜面扫地;二来违背中国“修文德以服人”的对外政策传统指导准则,显得“堂堂天朝”黩武狭隘。那么,仍旧是东亚最庞大的帝国的明,在对日关系中为何表现得如此难以理解的保守甚至变态呢?首先,我们要从所谓的朝贡体制寻找原因。虽然关于该体系的起点,学者们意见并不统一,但可以肯定的是,朝贡体制的理论与实践自有其漫长的发展过程,并与中国国内与周边形势的变化密切相关。由于朱元璋“比以往的任何朝代,更彻底地推行朝贡体制和贡舶贸易”(曹永和《明洪武朝的中琉关系》),因此在明朝前中期,朝贡体制达到了理论上高度完备,同时实践上也高度僵化的阶段,这种状态到晚明出现了巨大裂痕,进入满清则再度得到一定程度的恢复。朝贡体制的本质,与其说是外交政策或贸易手段,不如说是一种文化和政治信念。如费正清所说,皇帝奉天承运统治天下,“如果四周远人不承认他的统治,他又怎能令中国百姓臣服呢?在中国,权威是一项十分重要的统治工具,而朝贡能产生权威。”(《朝贡贸易与中西关系》)也就是说,万邦来贺、四夷宾服的盛况,是对皇帝统治权之合法性的有力证明,绝非仅用虚荣心膨胀所能解释。明朝在对外交往上最积极进取的永乐帝,是一个最好的例子,因为异域众国的纷纷来朝有助于营造“天命所归”的印象,缓解对他武力篡位的质疑。既然朝贡的真正意义在于“藩属”究竟来还是不来,则其来朝的动机、目的、表现都是次要问题。只要日本肯来“朝贡”,明廷不惜听任日本使团为所欲为、嚣张放肆,也甘愿在经济上做出一而再再而三的让步(称之为“恩惠”)。同时,明廷对对方的真实情况也缺乏了解的意欲,即便明知其居心不良也不愿深入追究。所以,这种一切为了渲染“德被远人”表象的做法,不仅是中国畸形“面子”文化的充分暴露,更有政治和文化理念上的深层背景。在今天的很多中国人看来,册封与朝贡的体制足以印证着历史的光荣,并昭示中国曾长久占据古代东方政治格局里当仁不让的支配地位,这是对概念与现实有意无意的混淆。现实中,中国的册封与朝贡体制在大多数时间内只是一种主观愿望,尤其是面对北方强大游牧民族的威胁之时,和亲、岁币乃至称臣的选择都并不稀奇。仅仅指责明朝在中日关系上的自欺欺人是不公平的,正如余英时在《剑桥中国秦汉史》中所指出:“对于汉朝来说,西域贡赋的重要性主要是作为一种政治归顺的象征,而不是它的实在价值。另一方面,对于西方诸国来说,贡纳就是贸易的官方托辞。”距离长安超过5000公里的粟特“从未对汉朝的权威表示过应有的尊敬”,却坚持参加贡纳体制,“唯一的目的是为了贸易”。这种贸易的特点是中方往往在实利上亏本,但帝国的政治理论和荣誉感又不容轻抛,于是便如毛轸119年所奏“西域络绎遣使,求索无厌。与之则费难供,不与则失其心。”最可悲的是,即便是亏本生意,也从未换来边境的和平,那些“番邦”一有机会就会以武力赤裸裸地掠夺侵扰。而每当此时,“闭玉门”的论调就会被提出,这与明代的“绝约闭关”异曲同工。对于朝贡体制这个“政治神话”(苏联学者L.Perelomov和A.Martynov在《霸权的华夏帝国》中称之为“政治怪物”)本质的尖锐剖析,在当代中国仍做得远远不够,特别是在近现代屈辱史的对照下,古代的“辉煌”更易被人工修饰放大填补自卑感,这也成为阻碍中国人理解并适应现代国际关系的不利因素。回到古代中日关系的问题,从两国交往之始,中国就单方面地把日本纳入了自我为中心的册封与朝贡体系,必须注意,这种立场是“单方面的”;与朝鲜、琉球等国家不同,基本统一后的日本并未心甘情愿地将自己定位于这个体系,相反,它吸收中国的“夷夏”观念后,反而试图建立一个以日本为核心的国际体系。为了避免和强盛期的中国发生直接冲突,在那些时段,日本一般会采取虚与委蛇的两面策略,政治上满足中方的“面子”,捞取现实的经济、文化利益。如前所述,甚至连日语的音读、训读两种发音也在遮蔽其真实意图的方面起到了有效的作用。总之,有明一朝,羽翼渐丰的日本实质上已经初现在东亚欲与中国分庭抗礼的积极意向和作为,丰臣秀吉在《答朝鲜国王书》中更提出要“直入于明,使其四百州尽化我俗,以施王政于亿万斯年”。只是明帝国出于种种原因,对此保持了一贯的懵然和无视,其对日政策大体可以概括为:“是彼有资于我,而我无资于彼。忠顺则礼之,悖逆则拒之,不易之道也。”(李言恭、郝杰《日本考》)这只是一部分。希望对你有帮助。

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我们比较文学老师就是研究日本文化的,我们听了好多的中日文化比较,这是研究生的论文范围,请恕本人的寡学,了解日本才能在这些方面谈,对比建立的了解基础 之上,

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