囲碁と将棋 どっちが面白い?
堀川香一2007/12/24
ゲームとしてどちらが难しいかと闻かれれば「どっちも难しい」 と答えるしかない。ピアノとバイオリン、スキーとスケート、テニスと卓球、同じ事である。何れも人间が极められない技(わざ)である。
この顷、散弾铳を乱射したり、暗い事件ばかりなので明るく趣味の事を书いてみたい。
センエツながら私は、町道场の认定ではあるが、囲碁は四段、将棋は初段である。皆さんの中にも囲碁や将棋が出来る方も沢山おられると思うが、道场まで行って打ったり、指したりする方は少ないのではなかろうか。特に囲碁は知らない方のほうが多いかもしれない。又は囲碁は出来るが将棋はルールしか知らないと言う方もおられるだろう(当然その逆も)。恐缩ではあるが、両方出来る私が囲碁と将棋「どっちがどっち」的、検证をしてみたい。「捏造あるある大辞典」より余程ためになると自负している?。
まず両方のルールを说明したいのだが、ここでそれは无理なので特徴を说明してみたい。
囲碁
19X19=361の交点のある碁盘を使い四角い升目(ますめ)ではなく、交点に碁石を打つ。打った碁石はそのまま动かない。ここが将棋と决定的に异なる。だからゲームが进むにつれて打てる交点は少なくなっていく。だいたい200手前后でゲームはおわり。361、完全に埋まる事は无い。その残った空间の大小を竞うゲームである。だから囲碁は「量」的なゲームと言える。そしてルールは将棋に比べ遥かに少ないので「反则负け」もほとんど无い。
将棋
9X9=81の升目のある将棋盘を使う。将棋は升目にあらかじめ配置してある驹を动かしてゲームが始まる。“指し进める”から指すと呼ぶ。そしてゲームの途中、自分の驹の进路にある相手の驹を「取る」ことが出来て、その驹を次の手番以降使うことが出来る。これは日本将棋だけの特徴であり、この场合は「指す」ではなく「打つ」になる。
王将、飞车、角行、金将、银将、桂马、香车、歩兵 の8种类の驹を使う。それぞれに动き方が决まっていてそれ以外のところに进むと「反则负け」になる。これは実戦で结构ある事であり、それ以外のルールも多く将棋は「反则负け」が囲碁に比べ圧倒的に多い。
王将を诘ませば「胜ち」。「取る」必要は无い。ここが误解されている事が多い。どんなに相手に驹を取られても王様を诘ませばよいので将棋は「质」的なゲームでと言える。
统括している组织。
囲碁 财団法人 日本棋院 东京市ヶ谷にある。
将棋 社団法人 日本将棋连盟 东京千駄ヶ谷にある。
使用する道具
囲碁 碁石と碁盘 碁石の黒は本物の石だが白は蛤の壳をくりぬいて作る。
碁盘は国产のカヤ材が最高级品。
将棋 驹と将棋盘 驹は木材、国产のツゲ材が最高级品。
将棋盘も国产のカヤ材が最高级品。
囲碁、将棋とも一般に使われているのはガラス制の碁石、プラスチック制の驹である。
盘も桂材が多い。
ゲームの性格
囲碁は戦略的 少し损をしても他で得をすれば、バランスが取れる。
将棋は戦术的 いくら得をしても大将が讨ち取られたら负け。
どのくらいの変化があるか?コンピューターに计算させたら?
囲碁 第1手目には361の着手点があり、第2手目には361マイナス1で360の着手点がある。これを平均手数200手として単纯に361X360X359と200回计算すると10の400乗位になる。
将棋 こちらも10の400乗位あると思う。とにかくスーパーコンピューターに计算させても100亿年以上かかると考えられている。
コンピューターVS人间
囲碁 まだとてもプロには胜てない。アマ强豪にも胜てない。
将棋 プロ名人クラスにあと一歩。アマ强豪に胜てる。
どのくらい先が読めるか?
私の场合、囲碁なら、ひと目で5手読める。5分位时间をかければ19手読める。时间制限なしなら41手くらい読める。
私は将棋の棋力は低いので県代表クラスの友人に同じ事を闻いたところ、それぞれ、9手、21手、37手で大体同じであった。
但し、プロは次元が违うのでプロの手の読みはケタ违いである。
囲碁と将棋どっちが难しいか。
これはその人の性格や思考回路によって人それぞれである。向き、不向きの问题である。
ゲームとしてどちらが难しいかと闻かれれば
「どっちも难しい」
と答えるしかない。ピアノとバイオリン、スキーとスケート、テニスと卓球、同じ事である。何れも人间の极められない技(わざ)である。
以上、私なりに検证してみた。囲碁、将棋の家元は江戸时代、将军家から、碁所(ごどころ)・将棋所(しょうぎどころ)として寺社奉行の管辖下、手厚く加护されてきた。それは単にゲームとしての面白さだけではなく、戦术的・戦略的な思考が武士の心得として重要だったからだと思われる。囲碁、将棋、どちらもアマ初段までいけば别の面白さが见えてくる。その醍醐味をここでお伝え出来ないのが残念である。
蛤の白石
博弈论本身是一门严谨的学科,一般博弈现象在社会政治和经济层面居多,博弈多方生在群体之间。生活中个人之间很难称得上是什么博弈。可以写互联网与传统行业之间的博弈,这个比较接近现在的生活。另外资本和政策的博弈,这个比较庞杂。博弈的结果不一定是胜负两分,很多时候是达成一种新的平衡,一种气和。可以把围棋所表现出来的博弈引入,这样也比较生活。
抛砖引玉
这是一种将综述型和论辩型两种形式有机结合起来写成的一种论文。
学位申请者为申请学位而提出撰写的学术论文叫学位论文。这种论文是考核申请者能否被授予学位的重要条件。 学位申请者如果能通过规定的课程考试,而论文的审查和答辩合格,那么就给予学位。如果说学位申请者的课程考试通过了,但论文在答辩时被评为不合格,那么就不会授予他学位。 有资格申请学位并为申请学位所写的那篇毕业论文就称为学位论文,学士学位论文。学士学位论文既是学位论文又是毕业论文。
学术论文是某一学术课题在实验性、理论性或观测性上具有新的科学研究成果或创新见解的知识和科学记录;或是某种已知原理应用于实际中取得新进展的科学总结,用以提供学术会议上宣读、交流或讨论;或在学术刊物上发表;或作其他用途的书面文件。 在社会科学领域,人们通常把表达科研成果的论文称为学术论文。
但是围棋改变了我。学习围棋,我看到了古往今来无数围棋高手,他们不管下棋遇到怎样的困难总能坚持到底。古力一生坚持着围棋事业,古力常说:“下围棋输赢不要紧,只要能坚持到底就是赢家!”爱迪生说:“无论什么时候,不管遇到什么情况,我绝不允许自己有一点点灰心丧气。”居里夫人说:“我们应有恒心,尤其要有自信心!我们必须相信,我们的天赋是要用来做某种事情的。”于是,我变成了坚持到底的我。
知识改变了我的态度,让我学会用认真负责的去对待每一件事;知识改变了我的行为,让我学会助人为乐、帮助他人;知识改变了我的想法,让我与众不同……
无论是过去、现在还是未来,无论是昨天、今天还是明天,知识永远不会停下它的脚步,它永远在语文中朗诵,在数学中计算,在英语中朗诵……
是知识改变了我!是知识让我奋进!
由魏晋南北朝(公元三世纪起)到唐代(公元七世纪起)是茶饮的"转变期",这可能是因为茶树的发现愈来愈多,制茶技术愈来愈进步,尤其唐朝更是由贵族化渐纳入民俗的时代,因此饮茶的风气才逐渐的普遍流传开来。
唐代饮茶的风气已颇盛行,不仅贵族们喜爱啜饮,民间饮茶之风也大为流行。当时阳羡唐贡山所产的"贡茶",是皇室喜爱的珍品,产量不多,非常名贵,那时阳羡茶得在清明前送到长安,做好的茶,即快马加鞭,-夜奔行数千里,到朝廷必先荐宗庙后赐重臣,以茶开清明大宴,茶的身价由此可知。因受到宫廷的重视,才由官府培植茶树。于是茶树由野生而成农物栽种。接着民间再种植,因此有了"茶税"的出现。
"上有所好,下必有甚焉者。"由于上位者的喜爱与重视,民间亦群起效尤,于是饮茶蔚为风尚,尤其是各大都市到处可见茶肆,茶经有云:"……谢安、左思之徒,似皆茶饮,是以与时俱广,浸于世俗,至国朝而盛,两都荆州、渝洲诸地、,已为每家必饮之物。"这是描写茶饮盛行的情况。又封洛见闻记载:"开元中泰山有降魔大师,与禅教学禅,务于不寐,又不夕食,皆许其饮茶,人自依挟,到处煮饮,从此转相仿效,遂成风俗。"由这两段访载,亦可为茶饮风行的左证。而诗风盛行的唐代,咏茶的作品,更是不胜枚举,也更证明当时的茶风。
陆羽,唐代竟陵人,又名疾,字鸿渐,又季庇,对茶有很深的造诣,时人称之为"茶神",他奉诏着茶经,茶经一出对饮茶之风,尤有推波助澜之势,全文分上、中、下三卷,共有十个单元:一之源、二之具、三之造、四之器、五之煮、六之饮、七之事、八之出、九之略、十之图等十章,对茶有全盘的介绍,是中国茶道的先声,也是中国茶道最原始最俱体的指导原则,以后的茶书皆依此改良。
唐代诸多名家也都是嗜茶者。继陆羽之后的茶道名家当属卢仝,隐居少室山,自号玉川子,着有"玉川子诗集",嗜茶如命,所著的"走笔谢孟谏议寄新茶"诗,妙趣横生其中的"天子须尝阳羡茶,百草不敢先开花"及"卢仝七碗茶"更为后来品茗者传诵不已。
唐时不仅国内饮茶,也输往各国。由"榷茶使"司掌,(宋称为"茶马司"),当时来华留学生也日本为多,日本僧人"最澄",学成后将茶苗带回日本,于是日本开始植茶。至宋代日本荣西禅师来我国留学,写成"吃茶养生法",日本的茶经于是诞生,日本的茶道开始宏扬,至江户时代产生无数流派,且注入日本人的精神,再赋与宗教及礼教意味,成为"日本茶道"。
宋朝
宋人饮茶,基本上仍依循唐朝的准则,又从高雅的享受更发扬光大,这与宋代理学的清谈也有关系,于是士大夫争相讲求茶品、火候、煮法及饮效等,并已经不再茶中添煮薄荷、茱萸、橘皮等物了。有关于茶的吟咏更是藻墨丰富、举之不尽。而当时"茶礼"及"奠茶"两种习俗的存在,是使茶更为民间重视的原因,至今民间相亲,还是有让女方奉茶给男方来相亲的亲友的习俗。
"工书画、通百艺"的宋徽宗更是以皇帝之尊,亲着"大观茶论"二十篇,其中虽仍与蔡襄(字君谟)的"茶录"雷同,但仍是茶道中珍贵的重要文献。
宋朝文人也都是品茗行家,如欧阳修、苏轼、黄庭坚、司马光、蔡君谟…等,也都有诗句赞茶,甚或着文立论,其中东坡与君谟的"斗茶"及东坡与司马光的"墨茶之辩"更传为佳话,而民间也常以斗茶为乐。所谓"墨茶之辩"是指有一天司马光开东坡的玩笑说:"茶与墨相反,茶欲白(宋时评白茶第一),墨欲黑,茶欲重墨欲轻,茶欲新,墨欲陈,君何以同爱此二物?"苏轼不加思索的答道:"奇茶妙墨俱香,公以为然否?"真是妙人也妙语。也有段关于蔡襄品茶识茶功夫的记载如下:福建建安能仁寺的和尚制了八个茶饼,还起了个雅号叫"石岩白",送四个给蔡襄,另四个送给京城的翰林学士王禹玉,一年后蔡襄从福建返京城访禹玉,王以最好的茶待客,蔡襄尝了一口说:"此绝似能仁石岩白,公何以得之?"蔡襄真不愧此道行家。
元朝
元朝对于"茶文化"最大的贡献,应是将"茶"推广到四大汗国的领域,北达俄国,西抵波斯及地中海以东之地。虽史料并无元朝茶事扩展的记载,但元人本为蒙古游牧民族,唐宋也以茶安抚,对茶应有份好感,只是没那份品茗的风雅罢了,随着领域的扩展,而将生活必须的茶发扬于外,并非不可能。而民间品茶之风,或可由元曲中"坐烧丹忘记春秋……淡饭一杯茶去。"略见避世隐居的寄情山水之趣,与茶、饭并列的普遍。
明朝
明代,茶的形状已渐由团茶变成散茶,于是唐宋饮茶的准则也做了增补或删除。由原来的煮茶改为泡茶,程序也因而缩减,同时也发明了"炒菁法",在未发明炒菁法之前,茶叶是采"自然酦酵",在炒菁法发明后才开始有了绿茶及红茶的制造。不过当时除了采用"泡茶"的方法,乃沿袭着"煮茶"法,只是在器具及过程上较简化罢了,就正如我们现代又比明代更简化一样。此时茶肆的经营已很普遍,民问品茶的活动,由户内而转向户外,且时常举行"点茶"、"斗茶"之会,大家相互"较精"比赛技术的高下,一时蔚为风尚。
自唐、宋以来,茶饮之风素盛,下迄明代,颇有日渐风行之势。"炒菁"的制茶法,与"散茶"的流行,使得饮茶的方式,-趋简化,不若唐宋团茶的繁复,现今的制茶方法与"泡茶"法,即是延袭明代的方式,至今也约有六百年的历史了。
明代建都南京,江南一带本是茗茶之源,重科举更使文士地位居于四民之首,而茶向来就与琴、棋、诗、画有渊远的关系;再加上朱元璋起于民间,深知疾苦所在,茶课(税)甚轻,由于利厚,民间更广植茶树,茶商也收购运销四方,所以明"农政全书"中记载道:"种之则利薄,饮之则神清,上而王公贵人之所尚,下而小夫贱隶之所不可阙。诚民生日用之所资,国家课利之所助。",可见明代茶饮之兴盛。同时,明代也如宋朝,需以茶来怀柔四夷,作为政策上的应用,如此"采山之利,易充厩之良"的"以茶易马",更使明代对于茶的重视了。
明代重科举,文风必盛,喜以风雅相尚的文士,吟风弄月之余,品茶助兴似成风气,当代名士袁宏道先生在其《袁中郎全集》中更说:"茗赏者上也,谭赏者次也,酒赏者下也。",有人问他"公今解官亦有何愿",宏道答说:"愿得惠山为汤沐,益以顾渚、天池、虎丘、罗芥(以上皆茶名),如陆(羽)蔡(襄)诸公者供事其中…",袁宏道在当时颇负盛名,广游于文士之场,应可代表当时文士与茶的关系。而画坛名流也常以"茶事"为题,如文征明有"烹茶图",沈周有"醉茗图"、"虎丘对茶坐图",仇英有"松亭试泉"图,与唐寅的"品茶图"……等,是图也是诗,同时茶书的著作,更多达四十余册,许次纾的《茶疏》即是其一,可见茶饮在明朝的盛况。
清朝
清朝至皇太极入主中原及多尔衰摄政以来,沿袭旧明之制,但法规尤为严密,且又屡兴"文字狱",文人已无心吟咏"茶"了,再加上清未经鸦片、英、法、甲午诸役后,民心士气危弱,民族自尊心也大损,茶饮似乎也为洋水冲淡了。茶的风气似不如前朝的盛行,文人谈及茶事者亦较少,而达官贵人间相往来,竟有"端茶送客"的陋规,这和从前"客来烹茶"、"敲冰煮茗"、"以茶待客"的情况,简直不可同日而语了。
近代
辛亥革命后,饮茶就已蒙上浓厚的商业气息了,各地茶肆皆各有特色,如福州茶馆兼营浴池生意,贵州茶馆有说书,江西茶馆前的道情,北平茶坊因在帝京,因此颇有帝王气势,四川茶馆则花样最多、气象万千,饶富趣味,广东茶馆的工夫泡法等,皆具地方色彩又有特殊风味。台湾因为外国进口饮料充斥坊间,咖啡厅林立街头,茶饮一度曾没落,更谈不上深具规模的茶楼了,近年来因得各界人士的提倡并证实茶有益于身心,故重新唤起了百姓对茶的注意,颇有渐受重视的趋势,茶楼也开始出现,这是一种好现象。
从明清迄今,饮茶仍是中国人生活的一部份,也是中华文化的一部份,至今我们口渴还习惯说"喝茶",但奇怪的是一提到"茶道",就会拿日本作代表,就如同中国的书法、围棋、剑术一样。面对这些国粹,顾影自怜又徒呼奈何!在一片恢复中华文化声中,正名我们的"中国茶道"是各茶艺协会所应担负的先导任务,使国民能认识并体验到正统"中国茶道"的生活艺术,而大众也应对"茶的文化"做一番了解。
自神农发现了茶叶以后,历经唐宋的发扬,明清的改革迄今,它已在中国历史上吟咏了至少三千年以上,"茶"号称为"国饮"一点都不为过,所谓饮水思源,饮茶也要知道它的来源。尽管"茶"现已风行各国,成为世界最有益的饮料,然中国人还是有中国人饮茶的方式与精神,因为中国人有中国人特有的文化特质。
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