端午の节句端午(たんご)は节句の一つで、现在は5月5日である。五节句の一つであり、端午の节句とも呼ばれる。そもそもは旧暦5月5日に祝われたが、今日の日本ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、旧暦や月遅れの6月5日に少ないながら一部地域では行なわれている。日本では端午の节句に男子の健やかな成长を祈愿し各种の行事を行う风习があり、国民の祝日「こどもの日」になっている。尚、中国语圏では现在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。菖蒲の节句ともいう。端午の意味 [编集]旧暦では午の月は5月にあたり(十二支を参照のこと)、この午の月の最初の午の日を节句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の节句の日になったという。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の节句」と呼ぶようになったともいう。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も节句になっている(节句の项目を参照のこと)风习とその由来江戸时代の节句の様子。左からこいのぼり、纹をあしらった帜(七宝と丁字)、锺馗を描いた旗、吹流し。『日本の礼仪と习惯のスケッチ』より、1867年出版五月人形の段饰り(昭和初期)兜の饰りものこの日を端午とする风习は、纪元前3世纪の中国、楚で始まったとされる。楚の国王の侧近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに汨罗江に身を投げることとなる、それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み鱼达が屈原の遗体を食べるのを制したのが始まりと言われている。しかし後汉末の応劭による『风俗通义』では端午と夏至にちまき(古代には角黍と称した)を食べる习惯が记録されているが屈原との関系には一切言及されておらず、また南朝梁の宗・による『荆楚歳时记[1]』には荆楚地方では夏至にちまきを食べるという记録が残されるのみであり、ちまきと屈原の故事は端午とは元来无関系であったと考えられる。この他に夏殷周代の暦法で夏至であったという说、呉越民族の竜トーテム崇拝に由来するという说、5月を「悪月」、5日を「悪日」とし、夏季の疾病予防に菖蒲を用いたという说も存在する。中国での端午の记録は晋の周処による『风土记』に记録される「仲夏端午 烹鹜角麦黍」である、また『荆楚歳时记』には「五月五日… 四民并蹋百草之戯 采艾以为人 悬门戸上 以禳毒気 …是日竞渡采雑薬 以五彩丝系臂 名曰辟兵 令人不病瘟 又有条达等组织雑物以相赠遗 取鸲鹆教之语」と记録があり、端午当日は野に出て薬草を摘み、色鲜やかな绢糸を肩に巻き病を避け、邪気を払う作用があると考えられた蓬で作った人形を饰り、また菖蒲を门に书け邪気を追い払うと同时に竜船の竞争などが行われていた。これは现代日本においても菖蒲や蓬を轩に吊るし、菖蒲汤(菖蒲の束を浮かべた风吕)に入る风习が残っている。日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に闭じこもって、田植えの前に秽れを祓い身を清める仪式を行う五月忌み(さつきいみ)という风习があり、これが中国から伝わった端午と结び付けられた。すなわち、端午は元々女性の节句だった。宫中では菖蒲を髪饰りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて饰りを付けたもの)を赐った。かつての贵族社会では薬玉を作りお互いに赠りあう习惯もあった。宫中の行事については奈良时代に既にその记述が见られる。鎌仓时代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の叶が剣を形を连想させることなどから、端午は男の子の节句とされ、男の子の成长を祝い健康を祈るようになった。铠、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁庆を模した五月人形などを室内の饰り段に饰り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である(ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸时代になってからで、関东の风习として一般的となったが京都を含む上方では当时は见られない风习であった)。铠兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる风习は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈愿している(こいのぼりの项)。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)こいのぼりからなる。吹き流しの5色は五行说に由来する。端午の日にはちまきや柏饼(かしわもち)を食べる风习もある。ちまきを食べるのは、中国戦国时代の楚の诗人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨罗江(べきらこう)にちまきを投げ入れて供养したこと、また、屈原の亡骸を鱼が食らわないよう鱼のえさとしたものがちまきの由来とされる。柏饼を食べる风习は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い叶が落ちないことから「家系が绝えない」縁起物として広まっていった。中国语圏では、现在も屈原を助けるために船を出した故事にちなみ、龙船节として手漕舟(龙船あるいはドラゴンボート)の竞漕が行われる。ヨモギ(蓬、中国语: 艾(アイ)または艾蒿(アイハオ))の束を魔よけとして戸口に饰る风习も、広く行なわれている。なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては初节句となるため、亲族総出で祝われることも多い。5月5日が祝日であり、さらに前後に祝日を伴う大型连休期间中にあるため、雏祭り以上に亲族総出で祝われる。関连する最近の话题 [编集]2005年11月、大韩民国の「江陵端午祭(朝鲜语: 강릉 단오제(강릉 단오제)、ローマ字転写: Gangneung Danoje)」がユネスコによる「人类の口承及び无形遗产の杰作」への认定を宣言された(第3回杰作宣言)[2]。この事を受けて、端午祭の本家である中国のマスコミをはじめとする诸団体は「韩国起源の节句として无形文化遗产登録された」などと猛反発した。韩国の报道では、実际には「端午の起源が韩国である」との主张は杰作宣言にも一覧表にも存在せず、また『韩国は「江陵端午祭」を申请した际、「もともとは中国の行事。韩国に伝わって1500年以上が経过した」などと说明した。』[3]としている。さらに韩国の报道によると、杰作宣言の5ヶ月前に、中国国内から「湖北省で行われている自国の江陵端午祭を、韩国の江陵端午祭との共同で世界文化遗产に登録しよう」という声が上がっていたが、韩国の学界から「中国の江陵端午祭は、韩国の江陵端午祭と名前だけは同じだが、完全に违うもの」と反発されていた経纬があるという